書記 明源寺住職 櫻井雅之

日本人の平均寿命は2023年度調べでは、男性81,05歳/女性87,09歳(厚労省調べ)だそうです。
私も勘違いしていたのですが、平均寿命とはその年に亡くなられた方の平均年齢ではなく、その年に生まれた0歳児の平均余命のことなんだそうです。つまり2023年に生まれた女の子の赤ちゃんは、大きな社会情勢(天災・戦争・疫病等)がなければ87,09歳まで生きられるということを表しています。

なるほど・・かの有名な戦国武将・織田信長が歌った敦盛の「人生50年~」の一節には、戦国時代ならではの社会情勢が平均余命に影響しているように思われますね。

以前、50回忌の法要案内で過去帳を調べているとあることに気が付きました。それは若くして命終わられている方がとても多いということです。それは時代をもっと遡ればより顕著になってきます。生まれたばかりの子、10代、20代・・現代とは比べられない程の命の記載があります。それほどまでに生死の問題が身近にあったのでしょうね。そういうことを思うと今の時代はこの生死の問題が身近ではなく、遠い未来に先送りにされている様に思われます。

お釈迦様の時代・・ある裕福な家に嫁いだキサー・ゴ―タミーという女性がおられました。

やがて子が生まれ、その子を可愛がって命より大切に育てますが、よちよち歩くようになった頃、突然死んでしまいます。周りの人たちは、悲しんで葬式の準備を始めようとしますが、キサー・ゴータミーは、現実を受け入れることが出来ず、動かなくなった子供を胸に抱きしめると、狂ったように村中を訪ね回ります。

「子供が病気で動かなくなってしまったんです。治す方法はないでしょうか。もし何か知っていたらどうか教えてください」

と懇願するキサー・ゴータミーに、

「かわいそうに、その子はもう死んでいるから無理だよ。諦めなさい」

と言う人がありますが、まったく聞く耳を持ちません。やがて心ある人が、

「私は薬の事は分からないけど、治せる人を知っているよ。祇園精舎におられるお釈迦様なら何とかしてくれるよ。」

それを聞いたキサー・ゴータミーは、祇園精舎へと向かいます。お釈迦様の元へたどり着いたキサー・ゴータミーは、泣きながら子供が動かなくなってしまったことを訴えて、治す薬を求めます。子供を一目見たお釈迦様は哀れに思われ、優しくこう言われます。

「そなたの気持ちはよく分かる。それではそなたの子供を助けてあげよう。今からその病を治す薬を教えるからよくお聞き・・。これから町へ戻って、芥子の種をもらってきなさい。その芥子粒で子供を生き返らせる薬を作ろう。ただ一つだけ条件がありますよ。その芥子粒は、今まで死人を出したことのない家から貰ったものでなければなりませんよ。」

それを聞いたキサー・ゴータミーは、町に向かって一心に走り一軒一軒、死人を出したことのない家を探して駆けずり回ります。

しかしどれだけ訪ね歩いても、一向に芥子粒が手に入りません。つまり死人を出したことのない家がないことに気が付きます。やがて辺りが薄暗くなって、もはや歩く力も尽き果てたキサー・ゴータミーは、夕闇の中、すっかり冷たくなった子供を抱きながら、お釈迦様のところへ戻って行きました。

「キサー・ゴータミーよ。芥子粒は得られたか」

「お釈迦様。死人のない家はどこにもありませんでした。家族を亡くした悲しみを抱えているのは私だけではないということを知らされました。」

泣き崩れるキサー・ゴータミーに、ようやく法を聞く心が起きたことを察知されたお釈迦様は、死ぬのは子供だけではなく、キサー・ゴータミー自身もやがて死んで行かなければならない一大事があることを教えられたのでした。

彼女は深く懺悔し、出家して、仏道を求めるようになったと伝えられます。

有難いのは、この時お釈迦様が、「そなたの子供はもう生き返らない。諦めなさい」とは言わなかった事です。キサー・ゴータミーの立場に立って、「芥子の種を貰ってきたら、薬を作って助けてあげよう」と言われています。ここにお釈迦様の巧みな説法が垣間見えます。お釈迦様の「助けてあげよう」とは、子供を生き返らせることではなく、キサー・ゴ―タミー自身に向けられた言葉のように思えてなりません。

「生老病死」の解決はお釈迦様ご出家の大きな動機です。人は(生)まれた瞬間から年を取り(老)、生まれた瞬間から(病)と向き合い、生まれた瞬間から(死)と隣り合わせです。この現実は老いも若きも関係なく「いま」の「わたし」に突き付けられています。それは平均寿命の長短に拘わらず、社会情勢がどう変わろうとも変わることのない摂理です。

「生死の苦海」に沈む我らの命を見離さないと45年もの永き伝道の道を歩まれたお釈迦様。その智慧によって救われる道があることを、お釈迦様のお話の中から共に味わいましょう。

南無